2011年12月アーカイブ

こんにちは。


今日も電動スクーターは現代に誕生するまでの歴史を紐解いていきたいと思います。


創立者川西清兵衛の名は、筆者が航研に就職(大正6年)すると間もなく耳にした。


しかし、当時、氏は織物業界の花形、日本毛織の社長(工場は加古川)で関西財界の雄こちらは大学出たての青二才であるので、直接面会の機会は得られなかったが、氏の航空界での進出ぶりは一々耳にした。


当時の飛行機はきわめて幼稚で、木骨布張り、馬力は50~70馬力程度。


だいたいは飛行家か、発明家の自家製。


オートバイの場所は倉庫かガレージの隅。


製造会社と名づけられるものは、日本には一社もなかった。


とある会社。川西航空機の後身。


戦後新明和と改称。


元の航空機設備の焼け残りと、技術陣とを擁して、ト三輪および二輪の生産に乗り出した。


オートバイの生産については関西ではもちろん先頭、日本全体としても、有数の先駆者であったことに間違いはない。


その商品名ポインターというのが、阪神地方ではオートバイの代名詞になっていたことでも、うかがい知れる。


ところで、新明和の前身たる川西航空機が、航空機の製造では、日本では最先駆的な会社であり、この"先駆的"というのは、同社の創立以来の牢固とした社風であると見てよかろうと思います。


このような歴史があり、電動スクーターは現代に誕生したのでしょう。

こんにちは。今日からブログを始めました。


このブログでは、電動スクーターが活用されるに至るまでの歴史をご紹介します。


宜しくです。


さて・・・オートバイの実用的目的に向かっては、トーハッやトヨモータースのやり口は好適だった。


両社が昭和30年ころ、メーカー序列のかなり上位を数年にわたって占められたのはこれによるとみてよいだろう。


しかし、そのころから富士重工のダイナスターやダイハッのミジェットに代表されるような軽三輪トラックの拾頭とともに、荷物運搬の仕事はそちらに肩がわりされるようになり、二輪車への要求の変化が次第に顕在化していき、上記2社あたりの足元に衰運がひそやかに迫ることになる。