2012年1月アーカイブ

研究の組織としては、陸海軍および大学協力の臨時軍用気球研究会というものがあり、既に7~8年仕事を続けていました。


後年、中島飛行機の社長となった申島知久平氏も、海軍機関大尉で、この会の一委員であった。


しかし氏は、けたはずれの大望家であったので、大正7年海軍を辞し、飛行機会社の自営に乗り出し、その時の出資者として川西清兵衛氏を引き入れ、中島、川西の協力で出発。


会社名は日本飛行機製作所、日本としては最初の飛行機専門会社です。


資金75万円のうち、60万円を川西が出資、木製布張りの飛行機の試作を始めたが、なかなかうまく飛ばず、さすがの中島氏も最初は意気上がらなかったが、大正8年ようやく陸軍への納入が決まり、軌道に乗りかけたら、中島川西の両雄の間に意見の食違いが起こり、たもとをわかつことになり、川西氏は関西で自ら飛行機製作を始めることになる。


飛行機からオートバイ・・・そして電動スクーターと、次々と形を変えてきたと思うと深いですよね。


最近のブログ記事

カテゴリ