電動バイク スクーターの最近のブログ記事

大正9年のこと。


最初は川西機械製作所の一部門。


仕事はなかなか積極的で、同所の飛行機は各地の飛行競技で名を上げる。


なお、大正12年には1坦こさきがけて、輸送会社も設立した。


名称は日本航空株式会社、昭和3年には、日本航空輸送株式会社に発展、これが現在の日本航空の前身です。


技術革新にも意欲的で、昭和の初めごろ、一時世界的に流行した太平洋横断飛行の企てにも率先して参加、設計者関口英二、テストパイロット後藤勇吉のコンビで推進したが、不幸、昭和3年2月、後藤氏は事故死、この企ては頓挫したが、ともかく、先駆的気風に富む会社であるという印象を、日本の航空史にとどめたのです。


なお、戦時色が濃くなってから海軍専管の工場となり、特に飛行艇の生産の特技を誇る。


そして、後々電動スクーターが誕生するのです。

研究の組織としては、陸海軍および大学協力の臨時軍用気球研究会というものがあり、既に7~8年仕事を続けていました。


後年、中島飛行機の社長となった申島知久平氏も、海軍機関大尉で、この会の一委員であった。


しかし氏は、けたはずれの大望家であったので、大正7年海軍を辞し、飛行機会社の自営に乗り出し、その時の出資者として川西清兵衛氏を引き入れ、中島、川西の協力で出発。


会社名は日本飛行機製作所、日本としては最初の飛行機専門会社です。


資金75万円のうち、60万円を川西が出資、木製布張りの飛行機の試作を始めたが、なかなかうまく飛ばず、さすがの中島氏も最初は意気上がらなかったが、大正8年ようやく陸軍への納入が決まり、軌道に乗りかけたら、中島川西の両雄の間に意見の食違いが起こり、たもとをわかつことになり、川西氏は関西で自ら飛行機製作を始めることになる。


飛行機からオートバイ・・・そして電動スクーターと、次々と形を変えてきたと思うと深いですよね。


こんにちは。


今日も電動スクーターは現代に誕生するまでの歴史を紐解いていきたいと思います。


創立者川西清兵衛の名は、筆者が航研に就職(大正6年)すると間もなく耳にした。


しかし、当時、氏は織物業界の花形、日本毛織の社長(工場は加古川)で関西財界の雄こちらは大学出たての青二才であるので、直接面会の機会は得られなかったが、氏の航空界での進出ぶりは一々耳にした。


当時の飛行機はきわめて幼稚で、木骨布張り、馬力は50~70馬力程度。


だいたいは飛行家か、発明家の自家製。


オートバイの場所は倉庫かガレージの隅。


製造会社と名づけられるものは、日本には一社もなかった。


とある会社。川西航空機の後身。


戦後新明和と改称。


元の航空機設備の焼け残りと、技術陣とを擁して、ト三輪および二輪の生産に乗り出した。


オートバイの生産については関西ではもちろん先頭、日本全体としても、有数の先駆者であったことに間違いはない。


その商品名ポインターというのが、阪神地方ではオートバイの代名詞になっていたことでも、うかがい知れる。


ところで、新明和の前身たる川西航空機が、航空機の製造では、日本では最先駆的な会社であり、この"先駆的"というのは、同社の創立以来の牢固とした社風であると見てよかろうと思います。


このような歴史があり、電動スクーターは現代に誕生したのでしょう。

こんにちは。今日からブログを始めました。


このブログでは、電動スクーターが活用されるに至るまでの歴史をご紹介します。


宜しくです。


さて・・・オートバイの実用的目的に向かっては、トーハッやトヨモータースのやり口は好適だった。


両社が昭和30年ころ、メーカー序列のかなり上位を数年にわたって占められたのはこれによるとみてよいだろう。


しかし、そのころから富士重工のダイナスターやダイハッのミジェットに代表されるような軽三輪トラックの拾頭とともに、荷物運搬の仕事はそちらに肩がわりされるようになり、二輪車への要求の変化が次第に顕在化していき、上記2社あたりの足元に衰運がひそやかに迫ることになる。